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概要:100年続く老舗メーカーの社長に就任して半年、突然の出血からキャリアが暗転した。
職場復帰翌年の2014年、製品に配合する成分の一部を有機農法で栽培するために、自社農園を開設した。
提供:マックス
2009年9月の子宮頸がんを皮切りに、3年で5回がんが見つかり、余命宣告も受けた大野さん。だが2013年9月に治療を終了し、社長業に復帰。以後今までがんが再発することはなく、「普通に近い」生活を送っている。
大野さんは、がんが見つかる度に病院を変えた。それは夫と話し合った結果だ。
「私は闘病中、気分が滅入るからと患者ブログなども見ませんでした。とはいえ、やることがなくて暇な分、悪いことばかり考えて鬱々としていました。その間、夫はずっと情報を集めていました。この病院はこのがんに対して、こういう治療をしていて、その効果はこれくらい、そんな情報を一覧できるよう表にしてくれました。医療機関によってがんのアプローチは違います。だったら自分たちが納得できる治療法を選択しよう、それでだめなら諦めもつくからって」
がんを再発する自身の体質改善にも取り組み、食生活も見直した。減農薬・無農薬の野菜を摂取し、塩分も取らない。入院した病院で、医師から「好きなものを食べて」と言われても、病室にジューサーを持ち込み、野菜をすりつぶして飲んだ。
「病気を治療するのは医師や医療技術ですが、病気になりにくい体をつくるのは自分自身だと考えるようになりました。食生活は闘病中から変えていません」
闘病経て社長復帰も、創業以来初の赤字危機
闘病を経て、目指す社長像も変わった。 撮影:品川雅司5回のがんと闘病を経験し、大野さんは「決断が早くなったし、どうしたら自分が納得するのかを考えるようになった。それが経営にも生かせるようになった」と話す。
闘病中、悩んでいるときは悪いことばかり考え、心が弱くなった。その間にも病気は進行し、体力は落ちていく。「治す」と決めて治療方法を選択したら、多少は気分が軽くなり、家族一丸となって治療に取り組めた。
がんにかかる前とは、思い描く社長像も変わった。
「社長は何でもできなくてはいけない、と思っていて、それがコンプレックスにもなっていました。例えば私は文系学部の出身ですが、中小メーカーの経営者は理系が多くて、そこに劣等感を感じてしまい、結婚相手は絶対理系!と決めて今の夫と結婚したくらいですから……」
「だけど自分が病気になったら何もできなくなった。夫が支えてくれて、病気についても調べてくれて、『先生とちゃんと話しなさい。治療法を決めるのはあなただから』とはっぱもかけられました。だから今がある。会社でも、社員ができることは社員に甘えればいいんだと思うようになりました」
闘病中、がんを治療したと思ったら数カ月後に新たながんが見つかる、ということを繰り返し、「毎回毎回、ほんとにがっくり来た」という。
「でも、私以上に家族ががっくり来ている姿を見て、そっちがつらかった。何としても治さないとと思いました」
「最近は同じ病気の人から悩みを聞く機会も増えましたが、元気な人たちには、私のように忙しさを理由に健診を後回しにしないでと言いたいです。闘病中は本当に大変で、会社に戻るときに、治療を思い出すものは全部処分しました。だけど、自分がつらかったときの経験は忘れず、社業に反映させていきたいです」
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